今週のお題「鬼」
私は鬼も節分も全く興味がないのだけれど、鬼と聞いて久しぶりに浜田廣介さん作の童話、『泣いた赤鬼』のことを思い出しました。
それは悲しく切ないお話。
子供の感性であのお話を読むとどんな受け止め方をするんでしょうね。
もう息子は大きくなってしまったので知る由もないけれど、50代の私には少々違った見方、感じ方をしているかもしれません。
ちなみにそのお話は、人間の友達が欲しかった赤鬼が、家の前に看板を立ててお茶に誘うところから始まります。
でも自分の期待通りのことは起きず、かえって怖がられ避けられたことにイライラしてしまいます。
そんな時に友達の青鬼がやってきて、自分が悪者になって村で暴れるから、そこで赤鬼が人間を助けてあげればきっと友達になれると言うのです。
赤鬼はそんなことを青鬼にさせるのは悪いと思ったものの、その提案に乗っかります。
計画はうまくいき、赤鬼は人間と友達になることが出来ました。
でもあの時以来、青鬼が全然会いに来なくなったことが気になり青鬼の家を訪ねてみると、そこには赤鬼のことを優しく気遣う張り紙が貼ってありました。
赤鬼がこの先も人間と仲良くしていくことを願った青鬼は、自分の存在が赤鬼の幸せを壊すことがあってはいけないと思い姿を消してしまったのです。
失ったものの大きさに気がづいた赤鬼は泣いて泣いて悲しんだ、というところでこのお話は終わります。
胸がキュッと痛くなるけれど、それぞれの鬼の姿に自分を投影させてみた時に、自分ならどうしていただろうかとついつい現実的な見方をしてしまいます。
例えば、青鬼の自己犠牲的な愛や、見返りを求めない無償の愛は尊いものだけれど、相手のことを本当に思うのなら、赤鬼が良心の呵責を感じないよう「これから僕は自分のやりたいことを見つける旅に出かけるよ」とか言ってお別れした方が良かったんじゃないかとか、そもそも赤鬼は、物事が期待通りにいかないからといってかんしゃくを起こしていたら人間どころか鬼とも仲良くなれないよとか、「青鬼は本当は優しい鬼なんだ」とちゃんと後でフォローしておかなくちゃ恩知らずだよとか、もう考え出したらお節介思考が止まらない。
鬼を目の前におばさんがこんこんと説教し出したら、さすがに鬼も逃げていくかもしれません。
というか、こんな読み方をしたら作者の意図が丸潰れできっと邪道なのでしょう。
このお話のポイントは、「何かを得るためには何かを犠牲にしなければならない」、「相手を思いやる優しい友情」、「身近な存在を大切にすること」などを教訓としているのでしょうから、あまり深読みしない方がいいのかもしれません。
でも思うんです、誰かの不幸の上に幸福があるとするならば、それは本当の幸福ではないって。
あのお話が悲しく切なく思えるのは、赤鬼だけが幸せになって、青鬼は友達のために一人ぼっちになって不幸になったみたいな印象を持ってしまうからではないでしょうか。
もしこのお話の続きを書いてもいいとするならば、「赤鬼も青鬼もそれぞれ自分の幸せを見つけて楽しく暮らしましたとさ。」で終わって欲しい。
今の世の中、全ての人が幸せだとは言えないけれど、せめてお互いの幸せを願えるような、そんな思いやりや優しい心を忘れないようにしたいと思います。
そう言えば、しっかり記憶してはいないのですが、先日の『笑点』の大喜利で木久扇さんが「鬼は本当にはいないけれど、人間の心の中にいるんだよね」と言って座布団をもらっていたような…
自分の心の中に悪いものが入ってきていないか、時々しっかり見つめていきたいと思うのでした。