プータとわたしと時々ダーリン

目の不自由なおじいちゃん犬プータと家族のささやかな日常を綴ります

笑っていても心が痛むとき

 

久しぶりにブログを更新してみようと思いました。

 

季節はどんどん巡って行き、プータさんがいなくなって初めての夏を迎えています。

 

今年は災害級の暑さと言われ、もしプータさんがいたら、どうやってこの酷暑を過ごしていたのだろうとちょっと想像したりしてしまいます。

 

「飼い主としての責任」という荷から解放され、あれこれ心配しなくてよくなったけれど、寂しさに心が折れそうになります。

 

時間が経てば気持ちが落ち着くかと思っていたのですが、かえってもういないという現実に参ってしまいます。

 

私が想像している以上に長い時間が必要なのかもしれません。

 

普段の生活の中で笑える余裕はあるけれど、でも笑っていてもどこか悲しみで痛みを感じます。

 

プータさんがいる時は、後悔のないよう一生懸命お世話をすることで、ペットロスにならずに済むかもかもしれないと思っていたのですが、そんなことはあまり関係なかったみたいです。

 

18年もずっとそばにいてくれました。

 

いつも黙って愛くるしい目で私を見つめて、私が話すことをただただそばで聞いてくれていました。

 

そんな貴重な存在がいなくなってしまったのだから、その喪失感の大きさは図りしれません。

 

105歳まで現役医師だった日野原重明さんが言っていた事だと思うのですが、「乗り越えることは受け入れること」という言葉を最近考えています。(日野原先生の言葉じゃなかったらごめんなさい)

 

これって、悲しい気持ちを受け入れないと、乗り越えられないってことですよね。

 

悲しい気持ちを切り捨てることが乗り越えることではなくて、受け入れる? 

 

どうやって受け入れるというのだろう。

 

今ぼんやり出ている答えは、無理して元気にならなくてもいいのではないかということ。

 

だって悲しいのは当たり前なのだから、自分の気持ちを急かす必要はないんじゃないでしょうか。

 

だからいろいろなことを思い出して悲しくなったときは、「悲しくていいよ」と自分に言ってみようと思います。

 

懐かしい写真や動画を見ていると、記憶が一気に蘇ってきて、思わず思い出し笑いをしてしまいます。

 

でもすぐに悲しみと寂しさが追いかけてきて胸が痛みます。

 

感情が一方からもう一方へと引っ張られて、とっても嫌な気持ちになるけれど、でもこうした複雑な心の動きをするのが人間なのでしょう。

 

「悲しい」という感情は、自分を痛めつけ、辛いもののように思うけれど、でもそれは愛情ゆえに生み出される強い感情なのだから、そっと大切にしておいてあげようと思います。

 

記憶がなくならない限り、きっと悲しみがなくなることはないのですから…

 

笑いと悲しみのどっちの感情も大事にする。

 

「乗り越える」とは、難しいことではあるけれど、そういうことなのかもしれません。

 

去年の夏。お気に入りのフニャフニャ枕の上で寝ている💤
プータさんにはこの枕のことをYogiboと言っていた。
(本当はニトリのプチプラ枕です)🤭